こんにちは。リュウタロウ先生です。東京芸大休学中の作曲家です。
AI作曲はダメとかよく聞きますが…一方で、古今東西の音楽を学習して出来上がっているものなので、分析すると意外と作曲の勉強になったりします。
本記事ではAI作曲で作られた楽曲の音楽理論的側面を分析していきます。
今回取り上げるのは flehmen の新曲「いろはフロウ」。この曲には、少し変わった出自があります。下敷きになっているのが、日本人なら誰でも一度は目にしたことのある、あの誦文なのです。
下敷きは「いろは歌」です
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
平安期に成立したとされる、七五調の誦文「いろは歌」です。仮名を重複なく一度ずつ使い切るという離れ業で知られていますが、この曲が受け取ったのはその技巧ではありません。歌の中身のほうです。
意味を今の言葉にすれば、こうなります。色鮮やかに咲く花もいずれは散ってしまう。この世で誰が変わらずにいられるだろうか。有為の奥山を今日越えて、浅い夢など見るまい、酔いもすまい ― つまり、無常です。すべては移ろい、留まるものはない。千年前の日本人が、五十音の練習帳にこの主題を選んだという事実が、そもそも面白い。
無常を、どの音楽に乗せるか
さて、作曲家として考えるべきはここからです。「すべては移ろう」という主題を、どのジャンルに乗せるか。
厳かに演歌調でいくのか、諦観をフォークで歌うのか。この曲が選んだのは R&B/Soul(副次的に J-Pop)でした。これは思い切った判断です。R&B は本来、肉体的で、現在進行形の音楽です。無常観という静かな主題とは、一見遠い。
ところが、聴いてみると噛み合っています。理由は、R&B のグルーヴが持つ「止まらなさ」にあると私は考えます。跳ねるリズムは、常に次の拍へ向かって流れ続ける。留まらない音楽なのです。「すべては移ろう」という嘆きを、「だから流れ続けよう」という肯定へ裏返す ― そのひっくり返しを、ジャンルの選択自体が担っている。タイトルに フロウ(流れ)が入っているのは、伊達ではありません。
【ワンポイント】古典を歌に載せるということ
古い詩に新しい曲をつける営みは、洋の東西を問わず続いてきました。シューベルトはゲーテの詩に数多く作曲し、それらは今日「歌曲(リート)」として演奏され続けています。詩そのものは変わらないのに、時代ごとの音楽をまとって何度でも蘇る ― 古典とは、そういう再利用に耐えるだけの強度を持ったテキストのことなのかもしれません。
歌詞の構造 ― 千年前の綴りを、今の発音で歌う
もうひとつ、構成上の工夫があります。この曲の歌詞は、いろは歌そのものを歌うパートと、現代語のリリックが交互に配置されています。さらに英語のセクションも挟まります。
ここで注目したいのが、いろは歌のパートの扱いです。上に引いた綴りのままでは歌われていません。歌になっているのは、それを発音どおりの現代仮名に直したものです。冒頭は「いろわにおえど ちりぬるを」と鳴ります。
不思議に思われるかもしれませんが、これが正しい。歴史的仮名遣いでは「は」を wa、「へ」を e と読みます。「けふ」は きょう です。表記と発音の隔たりは、千年のあいだに開いたもの ― 文字は残り、音のほうが動いてきたわけです。歌にする以上、乗せるべきは今の耳に届く音のほう。この判断は、曲の主題である「移ろい」と、そのまま重なります。変わらないのは文字で、変わったのは音。歌詞表記のレベルで無常が起きているのです。
そして、いろは歌のパートで千年前の無常観を提示し、現代語のパートで「それでも進む」と応答する。時間の離れた二つの声が、同じ曲の中で対話している構造です。「有為の奥山 超えて行こう」という一節は、まさに原典の一句を現代の側が引き取って、前へ進む宣言に変えたものです。嘆きで終わらせず、次の一歩へ渡す ― この曲の芯はそこにあります。
動画で、さらに踏み込んでいます
この曲は、解説動画でも扱いました。記事で書いた設計の話を、実際の制作画面と音で確かめられます。
結
「いろはフロウ」を聴くときは、いろは歌が流れてくる瞬間に耳を向けてみてください。「いろはにほへと」が「いろわにおえど」と鳴る ― 千年前の言葉が、今の発音で、現代のグルーヴの上に違和感なく乗っている。その接続こそが、この曲の設計の核です。
いかがだったでしょうか?
面白いと思ってくれた方は、ぜひ YouTube チャンネルの方もごらんください。
https://www.youtube.com/@ryutarowsensei
リュウタロウ先生のAI作曲教室 / created by prompt-jukebox

